utukare’s blog

朝はスギ、夜はダニを摂取するアレルギー体質マン。免疫療法によりスギ花粉もダニも克服しようと奮闘中。

理想の義務教育について考える

2020年度から小学校でプログラミングが必修になるらしいですね。

SEの自分としてはプログラミング必修化ええやんと思いましたが、実際はプログラミングという教科が新たにできるのではなく、今までにある算数や理科、総合などにプログラミング的な論理思考を学ぶ要素が含まれるとかなんとか。

まぁ急にコーディングするのはハードル高いですからそれぐらいがちょうど良い着地点なんでしょう。

(小学校の先生がプログラミングを教えられるのかという問題もありますしね)

 

そんな義務教育の変化を見ながら、義務教育をさらに良いものにするにはどうしたら良いか考えてみました。

時代の流れに合わせて教育を変えていくのは勿論賛成なのですが、もっと根本的に変えた方が良いところもあるんじゃないのかなーと。

 

義務教育って広く浅く学んでいろいろな分野があることを知るのが目的かなと思います。

そういった意味では算数、国語、理科、社会、体育、図工、道徳、音楽、英語、、と多くの教科があるのはとても良いのですが、多くの教科は勉強のための勉強になってしまっている気がします。

勉強のための勉強。

それはつまり用意してある教科書を、一通り終わらせることを義務教育のゴールにしてしまっているということです。

例え小学生や中学生と言えど個人個人で興味・関心も違えば得意不得意も異なります。

それなのに皆一様に同じ教科書で同じスピードで足並み揃えてただただ作業のように教科書をめくっていく。

これが教育の成功とはどうしても思えません。

やはり理想は個人のペースで個人が学びたいように学び、それを教員が指導する。あくまでも主体は生徒で教員はサポートする立場であるべきです。

とはいえ、もちろん流石に小学生のうちに何を勉強したいのかはっきり定まっている子の方が少ないでしょう。

そのため、私が提案するのは、勉強したいことというよりは自分の興味のあること、楽しいことを小学校の早い段階で見つけるという課題を出すことです。

興味のあることは何でも構いません。野球でもサッカーでも絵を描くことでもケーキ作りでもファッションでも。例えば野球に興味がある子で考えるならば、野球について深掘りすることをその子の課題にします。深掘りの観点はある程度パターンを作って誘導しても良いかもしれませんが、深掘りの過程は生徒主体で行います。深掘りの観点は例えば「歴史、お金、物理」などが良いでしょう。今の小学生・中学生は携帯やパソコンをうまく使いこなせる子も多いでしょうから「歴史」についてはwebで調べてまとめるという形で進むでしょう。ただしお金、物理は難しい観点です。野球によってどのようにお金が流れ、どれくらいのお金が動いているのか、そしてボールのスピードと時間の関係性、バットのスイングスピードとボールの飛距離の関係性、、。調べるだけではわからないことも多いでしょう。

そこで先生の出番です。生徒が調べた計算式を解説し、さらにこういったことを調べてみたらと先を促します。そうやって先生が道中のガイドになってあげることが理想の教育だと考えます。調べたり先生に質問する中で勉強を主体的に進めることを学びますし、また、自分の興味がある身近なことを調べる中で幅広い分野へと足を伸ばしていくことを実感すると思います。こうした、学び手が主となって1つのことを調べていく勉強の過程は大学で行う研究と似ているものがありますが、目指すものは対極です。つまり大学の研究は1つのことをひたすら深掘って何らかの答えを導きますが、先に挙げた教育は1つのことを深掘りする内に枝分かれし多くの広がりを残した状態で終わります。1つの答えを導く必要はなく最終的な成果物がまとまっていなくても問題ありません。枝葉を広げる中で自分の広がり、世界の広がりを感じることが大切です。

単一のテキストで足並みをそろえて何のための勉強をしているのかわからずに勉強をするよりはよっぽど個人にフォーカスした、活きた学習になるはずです。

こうして義務教育で枝葉を広げまくり、その後の高校、大学で収束させていく。

今の義務教育の問題点は用意されたテキストで勝手に枝葉を広げられ、どう広がっているかが把握しづらいことです。入り口はなるべく狭く自分の身近なところからスタートし、次第に木を大きくしていく過程を自身で感じながら学ぶことで勉強の意義、自分の人生の広がりを知ることができます。

 

教育には正解もなければゴールもありません。

ただし不正解はあります。それは指導したことが生徒の身につかないことです。

予め用意された、誰が決めたのかもわからない無味無臭のテキストでは活きた栄養として生徒の血肉にはなりづらいでしょう。

世界は日々アップデートされ、人間もアップデートされます。

義務教育もアップデートされて然るべきです。

教科書を用意するのではなく、教育手順、つまり教育標(きょういくしるべ)を用意することが必要かと思います。これは何も抽象的な教育方針のみを決めてその場その場で柔軟に対応するということではありません。生徒が興味をもつ何らかのテーマからどのように枝葉を広げるかの手順を定めたものが必要ということです。そういった意味ではこれも教科書と呼んでいいかもしれません。手順は決まっているのでもちろん先生の負担も増えません。先生のアップデートは当然必要になりますが。

 

いま世の中では多様性がしきりに叫ばれています。そんな中、教育も単一ではなく多様性を持たなければ論理的とは言えません。

最近の、プログラミングを必修にするとか武道を必修にするといったことも時代に合わせた変化に一見見えなくはないですが、教育の根幹が変わったわけではなく、言ってみれば細かい瑣末な話でしかありません。何の教科を追加/削除するかを考えている時点で生徒1人1人に寄り添ってはいないでしょう。多様性が叫ばれる時代、生徒の個性を伸ばす時代、そこで大切なのはどう学んでもらうかを考えることです。ゆとり教育ver.2です。生徒主体型教育です。ゆとり教育は生きる力、思考力を伸ばすことを目的とし、コンセプトとしては時代の変化に合わせた然るべきアップデートでした。しかしその成果を測るための物差し、テストによって学力低下が指摘され、揶揄の意味合いが強くゆとりと呼ばれてしまいました。ゆとり教育にはゆとり教育に合ったテストがあったと思いますがそれを適切に用意することができなかったのだと推測します。それで言えば生徒主体型教育にアップデートしたところで今度は放任教育と揶揄されかねません。つまり教育のアップデートは学習内容とそれを測るベンチマーク(テスト)を併せて用意しなければ成し遂げられないのでしょう。

先に挙げた生徒主体型教育の学習内容は手順を作れば良い話ですが(勿論時間はかかるでしょうが)、ベンチマークについては難しいものがあります。生徒1人1人の学ぶことが異なればテストも1人1人異なって然るべきです。ただしそれを馬鹿正直に1人1人用意するのはナンセンスでしょう。テクノロジーも絡めつつ1人1人に合ったベンチマーク方式が必要です。

将来を担う貴重な人材である子たちを面白くない教育によって絶望させたくなく、また不完全なアイデアによって右往左往させたくはありません。日本を、ひいては世界をよりよくするため、教育の最適化は最も優先度の高い事柄だと言うことを再確認してこの記事を終わらせようと思います。

 

長々とした文章になりましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。


教育のワールドクラス――21世紀の学校システムをつくる